トロント日系文化会館で催される「紅白歌合戦」やさまざまなイベントでこの数年、ステージでの活躍が注目され始めた女性がいる。
マーナ豊澤英子さん。

歌に日本舞踊にタレントぶりを発揮していることから、以前、日本で芸能関係の仕事を?などと推測する人もいるくらいだ。

ところが、意外や意外。英子さんは大学で老年看護学を専攻、看護師、医学博士、大学教授、はたまた中国・河北医科大学の名誉教授といったお堅い肩書の持ち主なのである。いつでも誰にでも明るくフレンドリーに接する英子さん、今までいったいどのような道を歩んできたのか、その生きざまに迫ってみた。

〈取材・色本信夫〉

 

英子さんは1951年(昭和26年)1月2日、大分県佐伯市大入島(おおにゅうじま)で生まれる。5人きょうだいの4番目だった。この島は佐伯市からやや離れた海に浮かぶ島で人口およそ2000人。

「子供時代は男の子にまじって木の上に小屋を作って島や海を眺めたり、チャンバラごっこをしたり、活発な子でした。ろを漕いで沖合まで小船で行って海に潜ったこともありました。自然の中でのびのびと創造力や生きる力を養ったように思います」(英子さん)

 
11歳で父の郷里、臼杵(うすき)市に引っ越し。中学校では女子で初めて生徒会長に選ばれた。

大学進学を決めようとしていた高校2年のとき、姉が腎結核のため25歳の若さで他界した。九州ではまだ腎透析が行われていない時代であった。英語の教師になろうと考えていた英子さんは、姉の死に遭遇して「命を守る仕事に就こう」と進路を変更した。

「姉は口ぐせのように『看護師の○○さんは本当によく看護してくれる。とても心強い』と語っていました。日曜になると、稲作とみかん栽培で忙しい両親に代わってお花を持って見舞いに行くのが私の役割でした。その時、病棟で看護師以外の医療者の姿を見たことがなく、私にとってのイメージは医療者イコール看護師でした。それで迷わず看護学を選びました」
 
ところが公立と私立にはあるものの、国立大学のどこを探しても看護学士課程がない。農業で細々と暮らしている家は貧しく、国立大学という条件で両親から進学許可が出ていた。子供の頃から大学で学びたいと思っていた英子さんは困り果ててしまった。

ところが先輩からの情報で、数年前から熊本大学教育学部に特別教科が設置されていて、そこで中学と高校の教員(体育、美術、音楽、看護)を養成していることが分かった。卒業時には大学から教員免許、国家試験に合格すれば看護師免許を取得できるというものであった。

「もちろん熊本大学に進みました。ここの看護教員養成課程の先生方は日本の看護リーダーを育てるという信念に燃えていました。私の教師としての姿勢はこの熊大時代の先生方に方向付けられたと実感しています」
熊大に続いて、千葉大学、徳島大学、弘前大学に同課程が設立され、これら4大学の教員が日本の看護学研究を主導していくようになった。英子さんは熊大の教育学士および看護師免許を取得して卒業。文部省科学助成金を得て、千葉大学看護実践研究センターの共同研究員として千葉へ。研究者としての第一歩を千葉大で踏み始めた。

まず手術室、外来救急部、腎透析室、放射線診断部門にたずさわり、その後、神経内科病棟、集中治療室のヘッドナース(看護師長)として10数年働いた。

「ここで共に看護の向上をめざして頑張った病棟スタッフと患者の皆さまに、臨床ナースおよび管理者としての力を育てていただいたと確信しています」
 
1986年、35歳のとき、看護短期大学講師のポストに就く。そこで「看護師イコール教育者ではない」ということに気づく。長い間、臨床実践に明け暮れていた日々、他の領域の大学教員と教育哲学や教育カリキュラムを対等に語れるわけがない。こう痛感した英子さんは一期生を送り出したら更に学ぶために大学院教育修士課程に進学しようと決意。福岡教育大学に入り、91年、教育学修士号を取得する。